池田めぐみ (フェンシング選手)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/20 01:31 UTC 版)
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基本情報 | ||||||||||||
国籍 | ![]() |
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所属 | 山形県体育協会 | |||||||||||
誕生日 | 1979年8月1日(45歳) | |||||||||||
出身地 | 山形県南陽市 | |||||||||||
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池田 めぐみ(いけだ めぐみ、1979年8月1日 - )は、山形県南陽市出身の元フェンシング選手。旧姓は、原田[1]。東京女子体育大学卒業。筑波大学大学院修了[1]。
YAMAGATA ATHLETE LAB.(ヤマガタアスリートラボ) 創業者・代表[2][3]。
日本アンチ・ドーピング機構(JADA)アスリート委員[4][5]。
人物
- オリンピックに目覚めたのは5歳の時で、ロサンゼルスオリンピックの入場行進を見て、「私も行きたい」と感動した[1]。中学校は陸上部に所属し、三種競技(走り高跳び・100m・砲丸投げ)で山形県大会・東北大会で優勝した[1]。
- 高校は山形県立米沢興譲館高等学校に入学し、今度はフェンシング部に所属した。きっかけは姉がフェンシング部の選手だったので、顧問の先生に誘われたからである[1]。すると3年生の時にインターハイで4位になり[6]、フェンシングジュニア世界選手権に出場した。
- 体育大学への進学を医師の父から反対されたが、「スポーツだけで食べていけるとは限らない。五輪と大学院に行くのが条件だ」と言われ、東京女子体育大学へ進学した[7]。挫けずにフェンシングでの猛練習を励み、インターカレッジでエペ個人2年連続優勝・2001年アジア選手権エペ個人3位・2003年から2005年の全日本選手権はエペ個人で3連覇し、アテネオリンピック日本代表となったが、2回戦で敗退した。
- 大学院を修了後の2006年、地元に戻り山形県体育協会(現在の山形県スポーツ協会)スポーツ技術員に就任した[8]。11月に右足十字靭帯断裂で手術を受け、2007年に復帰した[9]、その年の7月中旬に亀田興毅・大毅の異種スパーリングに参加した[10]。
- アジアオセアニア大陸別代表選考会で優勝し、2008年の北京オリンピックに出場した。初戦のオーストラリアのパーキンソンと15対9で勝利したが、2回戦は銀メダリストのルーマニアのブランサと15対11で敗れ、個人のエペ部門で日本人最高の15位だった[11]。ブランサは2008年8月14日時点で世界ランキング1位。
- 2009年に結婚して休養した。その後復帰し、2010年の第16回アジア競技大会フェンシング女子エペ団体(中野希望・下大川綾華)で金メダルを獲得した。
- 2011年のアジア選手権後に乳がんと診断された。8月に手術を行い成功したが現役続行は難しいと判断し、12月に引退した[11]。
その他の出場歴
- 2005年世界選手権(ドイツ・ライプチヒ):エペ個人 16位
- 2006年ワールドカップバンクーバーAランク世界大会:エペ個人2位(日本人初の銀メダルを獲得)[9]
- 2006年ワールドカップグランプリ(オーストラリア・シドニー):エペ個人 11位
- 2006年世界選手権(イタリア・トリノ):エペ団体8位(史上初の入賞)
- 2007年世界選手権(ロシア・サンクトペテルブルク):エペ個人16位
役職
- 国際フェンシング連盟選手委員会委員[12]
参考資料
脚注
- ^ a b c d e アスリートライブ(池田めぐみ)
- ^ https://yonezawakojokan.info/2023/02/24/h10ikeda-7/
- ^ https://yamagata-athlete.com/about
- ^ JADAアスリート委員 池田めぐみさんがアジア大会優勝!!
- ^ https://www.playtruejapan.org/jada/organization/committee.html
- ^ 公益財団法人日本アンチドーピング機構(インタビュー・池田めぐみ)
- ^ 同窓会イベント>>同窓会ニュース>> 挑戦や挫折を糧に 元フェンシング五輪代表・池田めぐみさん - 米沢興譲館同窓会。2025年2月20日閲覧。
- ^ スポーツのこころプロジェクト(池田めぐみ)
- ^ a b 日刊スポーツ(2008年北京オリンピック)
- ^ 楽天ブログ
- ^ a b 朝日新聞(2011年12月11日)
- ^ 国立スポーツ科学センター
- 池田めぐみ_(フェンシング選手)のページへのリンク