歩兵第105連隊
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歩兵第105連隊 | |
---|---|
創設 | 1937年(昭和12年)8月30日 |
廃止 | 1940年(昭和15年)11月7日 |
再編成 | 1941年(昭和16年)8月1日 |
廃止 | 1945年(昭和20年) |
所属政体 | ![]() |
所属組織 | ![]() |
部隊編制単位 | 連隊 |
兵科 | 歩兵 |
所在地 | 日本-北支/日本-中支 |
編成地 | 青森県 弘前市 |
通称号/略称 | 弾12017 |
補充担任 | 弘前 |
最終上級単位 | 第47師団 |
最終位置 | 湖北省 |
主な戦歴 | 日中 - 第二次世界大戦 |
歩兵第105連隊(ほへいだいひゃくごれんたい、歩兵第百五聯隊)とは、大日本帝国陸軍の連隊の一つ。
沿革
- 1937年(昭和12年)
- 翌1941年(昭和16年)
- 1943年(昭和18年)5月14日、第47師団の編成に伴い、留守第57師団と編合し秋田へ移動し教育訓練に従事した[3]。
- 1944年(昭和19年)
- 爾後湖南省に向け鉄道輸送と行軍により移動を続けたが敵軍空襲により遅延。
- 1945年(昭和20年)頃に至り、ようやく湖北省武昌に到着。永豊地区にて警備に従事しつつ湖北省黄陂にて終戦を迎える。
連隊概要
歴代連隊長
代 | 氏名 | 在任期間 | 出身校・期 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|
第一次 | |||||
1 | 工藤鎮孝 | 1937.9.1 - 1939.8.1 | 陸士22期 | ||
2 | 小池信太郎 | 1939.8.1 - 1940.3.9 | 陸士24期 | 1940年(昭和15年)3月9日復員 | |
第二次 | |||||
1 | 池田栄之助 | 1941.8.5 - 1943.3.13 | 陸士25期 | ||
2 | 武信純一 | 1943.3.13 - | 陸士25期 |
編成
昭和13年当時
- 連隊本部人員:連隊長以下174名、馬匹74頭
人員は、連隊長以下3525名。連隊の装備は馬匹429頭、九二式重機関銃20門、75mm 四一式山砲3門、九二式歩兵砲6門、九七式曲射歩兵砲12門を保有した。
昭和18年当時
人員は、連隊長以下3092名。連隊の装備は自動貨車11輌、馬匹435頭を保有した。
参考文献
- 戦史叢書『北東方面陸軍作戦〈1〉』、朝雲新聞社。
- 戦史叢書『北東方面陸軍作戦〈2〉』、朝雲新聞社。
脚注
関連項目
- 歩兵第105連隊のページへのリンク