橘神社と旌孝碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 06:22 UTC 版)
逸勢の後を追ってきたその娘は、逸勢が客死すると、遺骸を板築駅に埋葬し、墓前に庵を結び、尼僧となって「妙冲」と号し、父の菩提を弔った。事件から9年後の嘉永3年(850年)5月に、逸勢の罪が赦されて正五位下を追贈され、故郷に埋葬することが許されたため、妙冲は父の遺骸を掘り返して代わりに遺品の鏡を埋め、板築を去ったとされている。妙冲の孝行は都に伝わり、賞賛されたことが『続日本紀』に記されているという。 三ヶ日町本坂の姫街道の沿道にある橘神社には橘逸勢が祀られており、逸勢の墓と伝えられる石塔がある。 『引佐郡誌』によると、妙冲が埋めた鏡は三ケ日町内の本坂の愛宕山の中腹にあった数個の平たい石の下に収められていたが、のち掘り出されて八幡神社に移され、それが盗まれて売り払われ、岡崎にあったのを、本坂の竹平気吹が探して買い戻し、再び八幡神社に納めたが、1908年(明治41年)に再び盗難に遭い、それ以来、行方知れずになったとされている。 1925年(大正14年)11月に、妙冲の孝行を顕彰して掛川出身の軍医総監・戸塚環海が橘神社に「旌孝碑(せいこうひ)」を建立した。 かぐわしき 木の実ありてぞ 橘の 枯れ木ももとに 移されにけり(る) — 昭憲皇太后、1893年(明治26年)に妙冲を偲んで詠んだ歌
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