橋本勘五郎とは? わかりやすく解説

橋本勘五郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/06 06:28 UTC 版)

通潤橋・熊本
明八橋

橋本勘五郎(はしもとかんごろう、文政5年(1822年) - 明治30年(1897年))は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した肥後藩石工である。

概要

元の名は「丈八」。肥後の通潤橋に携わり、東京でも幾つかの石橋の建設に参加している。種山石工の一人。

生涯

嘉八の三男として文政5年(1822年)、肥後藩種山村(現・熊本県八代市)に生まれる。種山石工の祖、藤原林七は祖父にあたる。石工としての技術を学んだ丈八は、兄弟の卯助、宇市とともに若いころからアーチ石橋を架け続ける。弘化4年(1847年)、丈八26歳のとき卯助を助け霊台橋(現・下益城郡美里町)を6か月で完成させ、その5年後、今度は宇市のもとで通潤橋(現・上益城郡山都町)を建造した。通潤橋の架橋後、肥後藩より苗字帯刀を許され、橋本勘五郎と名を改められた。

明治4年(1871年)、明治政府に招かれ宮内省土木寮勤めとなり、万世橋を明治6年(1873年)に、翌年に浅草橋と蓬莱橋、そしてさらに翌年に江戸橋と京橋の建設に参加した。皇居二重橋(正門石橋)にも関わったと言われるが、明治20年(1887年)完成なので疑問が残る。明治6年(1873年)5月に大手門内の石橋を修理したと言われるが、具体的にどの橋か判らない。明治7年(1874年)元日には歌会始に出席し、同年秋に帰郷した。

熊本に戻ってからは熊本市の明八橋、明十橋、菊池市の竜門橋の建設を指揮した。明治30年(1897年)、種山村にて76歳で死去。八代市東陽町北の石匠館の近くに生家が残っている。

代表作

※ 具体的に幾つの橋を架けたかは定かでない。





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「橋本勘五郎」の関連用語

橋本勘五郎のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



橋本勘五郎のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの橋本勘五郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS