横浜カリュー氏毒殺事件とは? わかりやすく解説

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横浜カリュー氏毒殺事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/26 17:13 UTC 版)

横浜カリュー氏毒殺事件は、明治29年(1896年)に横浜で起きた、イギリス人男性ウォルター・ハロウェル=カリューの急死をめぐる殺人事件である。妻イーディスが毒殺の容疑で裁かれ、当時の日英領事裁判制度のもとで大きな注目を集めた[1] [2]

背景

イーディス・メイ・ポーチ(Edith May Porch、後のカリュー夫人)は、イギリス南西部サマーセット州グラストンベリーの名家に生まれた。父は市長を務め、名門チャーチル家とも縁戚関係を持っていた。 1888年、15歳年上で中流階級出身のウォルター・レイモンド・ハロウェル=カリューと出会い、翌1889年に結婚した。夫妻は1890年日本へ渡航し、横浜山手の外国人居留地に居を構えた。生活は使用人や家庭教師を従える裕福なもので、乗馬やテニス、舞踏会などに親しむ上流的な暮らしであった。

事件の発生

1896年10月、カリューは体調を崩し、主治医ホイーラー博士の診断を受けていた。当初は肝臓病と考えられたが、22日午後、横浜海軍病院に入院後わずか数時間で死亡した。 検視の結果、体内からヒ素が検出されたため、妻イーディスが容疑者として浮上した。夫婦関係の不和や、財産をめぐる対立も動機として取り沙汰された[3]

裁判制度と経緯

当時の日本は、日英修好通商条約に基づき、在留外国人に対する領事裁判権をイギリスが保持していた。事件発生時は、1894年の日英通商航海条約が締結済みであったが、実際の施行は1899年からであったため、横浜英国領事裁判所で審理が行われた。

裁判の流れ

公判では、複数の薬局からカリュー家がヒ素を購入していた事実や、妻が薬品保管場所を管理していたことが証言された。また、夫の愛人とされる「黒衣の女」からの手紙が提出され、事件を一層複雑にした。証言や物的証拠には不自然さもあったが、陪審は「死刑」の評決を下した [2]

判決と減刑

1897年2月1日、イーディス・カリューに死刑判決が宣告された。しかし、直前に明治天皇が皇太后(英照皇太后)崩御に伴い大赦を発布しており、駐日英国公使アーネスト・サトウは「同じ恩赦を適用すべき」と判断。結果、刑は終身重労働へと減刑された。 夫人は同年4月に香港の刑務所へ移送され、その後ロンドン近郊のハロウエイ刑務所に収監された。1910年ジョージ5世即位に伴う大赦で釈放された[4]

事件の影響

この事件は、日本における領事裁判権のあり方や、外国人社会の内部事情を世間に強く印象づけた。被害者の墓をはじめ、裁判関係者の墓は現在も横浜山手外国人墓地に残されている [5]

参考文献

  • 『横浜山手外人墓地』(1984年、暁印書館、201p)
  • 『新聞集成明治編年史第十巻』(1936年、財政経済学会、28p)

脚注

  1. ^ カリュー氏毒殺事件”. 2025年9月27日閲覧。
  2. ^ a b 1936 & 財政経済学会, p. 28.
  3. ^ カリュー氏毒殺事件”. 2025年9月27日閲覧。
  4. ^ カリュー氏毒殺事件”. 2025年9月27日閲覧。
  5. ^ 1984 & 暁印書館, p. 201.

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