森岡比佐士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/12 00:25 UTC 版)
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基本情報 | ||||
名前 | 森岡 比佐士 | |||
生年月日 | 1938年2月4日(87歳) | |||
国籍 | ![]() |
森岡 比佐士(もりおか ひさし、1938年2月4日 - )は、日本のプロゴルファー。
来歴
1956年の関西プロで2位[3]、1960年の報知プロ新人で内田繁と共に今田慶之助の2位タイ[4]に入った。
関西オープンでは1958年に橘田規の2位[5]、1959年に石井迪夫の2位[6]、1964年に杉原輝雄の2位[7]に入った。
1961年には第2回中日クラウンズで9位[8]に入り、1962年には中村寅吉・小針春芳・林由郎・藤井義将・勝俣敏男・杉本英世・松田司郎と共に第1回アジアサーキットに参戦し[9]、帰国後の日本プロでは戸田藤一郎・工藤幸裕と並んでの10位タイ[10]に入った。
1964年の日本オープンでは初日を首位タイの松田・柳田勝司から3打差の3位に杉本・佐藤精一と並んで着け、最終的には林・勝俣功・木本与・河野高明と並んでの9位タイに入った[11]。
1975年のペプシウイルソントーナメントでは初日の14番でホールインワンを達成し[12]、1976年の関西オープンでは川上実と並んでの6位タイ[13]に入った。
1979年の関西オープンでは3日目にベストスコア67をマークして中村通・市川良翁と並んでの2位タイ[14]に浮上し、最終日には杉原の5位タイ[15]に入った。
1982年の兵庫県オープンでは初日を金山和雄と共に65をマークし、井上久雄・橘田光弘を抑えての首位タイ[16]でスタートするが、最終日には井上・島田幸作・西村公一を抑えるも金山の2位[17]に終わった。
脚注
- ^ 読売新聞縮刷版p89 昭和53年9月3日朝刊13面 話題の指定席ザ・100シリーズ「花ざかりプロゴルフ」
- ^ “日本のトーナメントルーツを探る | JGA 日本ゴルフ協会”. www.jga.or.jp. 2025年5月12日閲覧。
- ^ “男子トーナメント年度別一覧表(1926年~1972年)”. www.golfdendou.jp. 2024年7月25日閲覧。
- ^ “男子トーナメント年度別一覧表(1926年~1972年)”. www.golfdendou.jp. 2024年7月25日閲覧。
- ^ “男子トーナメント年度別一覧表(1926年~1972年)”. www.golfdendou.jp. 2024年7月25日閲覧。
- ^ “男子トーナメント年度別一覧表(1926年~1972年)”. www.golfdendou.jp. 2024年7月25日閲覧。
- ^ “男子トーナメント年度別一覧表(1926年~1972年)”. www.golfdendou.jp. 2024年7月25日閲覧。
- ^ “ムーディーを退けた理論家石井朝夫の執念”. hicbc.com. 2024年6月24日閲覧。
- ^ “アジアンツアーの歴史と成り立ち - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site of JAPAN GOLF TOUR”. www.jgto.org. 2024年6月24日閲覧。
- ^ “第30回日本プロゴルフ選手権(1962年)”. www.golfdendou.jp. 2024年6月24日閲覧。
- ^ “第31回日本オープンゴルフ選手権(1964年)”. www.golfdendou.jp. 2024年6月24日閲覧。
- ^ 朝日新聞縮刷版p686 昭和50年5月23日朝刊16面「日吉トップ ペプシ・ウイルソン・ゴルフ第一日」
- ^ 朝日新聞縮刷版p606 昭和51年7月19日朝刊18面
- ^ 毎日新聞縮刷版p720 昭和54年9月23日朝刊18面「アマの佐野、首位で最終日へ 関西オープン第3日」
- ^ 毎日新聞縮刷版p744 昭和54年9月24日朝刊18面「宮本がプロの面目 アマの佐野、沈んでも3位 関西オープン最終日」
- ^ 朝日新聞縮刷版p643 昭和57年7月17日朝刊17面
- ^ 朝日新聞縮刷版p680 昭和57年7月18日朝刊16面
外部リンク
- 森岡比佐士のページへのリンク