桑丘の戦いとは? わかりやすく解説

桑丘の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 03:36 UTC 版)

匡章」の記事における「桑丘の戦い」の解説

ある時、秦は魏と韓の領土通って斉に攻め入った威王匡章将軍任じこれを迎え討たせたが、両軍は宋との境である丘(現在の山東省済寧市兗州区)で相対する使者交わし一時猶予決め互い陣地設営した。 元々東西離れた両国将兵使者やり取り頻繁に交わすにつれ戦の緊張感消え失せ、将も兵も互いに和んだ雰囲気となり遂に両軍陣地境すらもわからぬ程に接して交流するまでに至った匡章この様子を見ると、自軍の旗を秦軍の旗に似せた形にして、将兵を伴うと秦軍陣営紛れて行ったこの様子を見た斉の斥候首都に戻ると匡章が兵達と共に秦軍入った旨を報告し匡章が秦に寝返った報告した。続く斥候達も全く同じ旨を報告し遂に斥候家臣匡章の裏切りを罰するよう、威王申し出た威王はそれを頑として受け入れなかった。 御前家臣達も不安を募らせる中、この後現れ斥候威王眼前斉軍大勝秦軍大敗報告した御前の者達は驚きの後、歓喜の声に湧き上がった。 後に威王家臣達からの何故王は匡章裏切り報告信じなかったのかとの問いに、威王はかつて匡章母親父親大恥をかかせたことが原因殺され厩舎の下に埋められたことを知っており、此度の戦で匡章将軍任じた際、この戦に勝ったら母の墓を厩舎の下から立派な場所に移すことを提案したが、その際匡章返答匡章自分欺き裏切るような人間ではないと確信していたと返答し後日これを人伝聞いた匡章斉王への忠節誓ったと言われる

※この「桑丘の戦い」の解説は、「匡章」の解説の一部です。
「桑丘の戦い」を含む「匡章」の記事については、「匡章」の概要を参照ください。

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