桐梓派での台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/18 00:57 UTC 版)
幼い頃は学問を修めたが、1914年(民国3年)より貴州新軍に加入する。後に周西成配下となり、四川省・貴州省を転戦した。1922年(民国11年)6月、中国国民党に加入し、翌1923年(民国12年)、周西成が靖黔軍を結成した頃に、王は旅長に昇格した。また、この時期には、周西成率いる桐梓派内部で「群(毛光翔)、紹(王家烈)、佩(黄道彬)、用(猶国才)」の後継序列が定まる。 1926年(民国15年)3月には、王家烈は第2師師長に昇進した。しかし、王は桐梓派内でも突出した軍功を重ねて台頭したにもかかわらず、周の義弟である毛に遅れをとる後継序列となったため、このことに不満を露わにした。これが原因で、王は周により一時罷免されてしまう。1927年(民国16年)春、王家烈は復帰し、周西成と対立する李燊の迎撃などで軍功をあげた。1929年(民国18年)5月、周が雲南の竜雲に敗れて戦死する。序列第1位で周の義弟である毛光翔が貴州省政府主席兼国民革命軍第25軍軍長となると、王は第25軍副軍長兼貴州省政府委員になった。
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