東西教会の狭間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/28 06:41 UTC 版)
「フィンランド正教会」の記事における「東西教会の狭間」の解説
東西両教会によりほぼ同時期に宣教が行われ、さらにロシア(ロシアが統一国家としてまだ成り立っていない時期にはノヴゴロド共和国)とスウェーデンという強国に挟まれたフィンランドは、信教の面でも東西両教会の前哨・狭間となった。この事により、正教は西方教会を奉じる国家権力から弾圧を受けることもあった。 12世紀・13世紀には西方教会に属するスウェーデンによる十字軍(北方十字軍)がフィンランドに対して行われた。その最初のものは1155年に行われ、さらに1239年と1293年にも侵攻が行われている。これによりフィンランドの大半がカトリック教会の傘下に入った。1240年にはカトリック教会のフィンランド司教トマスが、スウェーデン軍とフィンランド軍を率いてノヴゴロド共和国を攻撃している。ネヴァ河畔の戦いはこの頃の、スウェーデン軍を迎え撃つアレクサンドル・ネフスキー率いるノヴゴロド軍という構図の中で起こったものである。こうした経緯からカレリアでは、アレクサンドル・ネフスキーは聖人として格別の崇敬を集めている(現代ロシア正教会においても同様に格別の崇敬がなされている)。 カレリアはノヴゴロド共和国がスウェーデンから防衛することに成功したが、北フィンランドはスウェーデン領となった。16世紀末には、トリフォンが建てたペツァモの修道院がフィンランド人兵士により1590年に完全に破壊され、修道士も全員が殺害された。
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