東西教会の分離
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 18:32 UTC 版)
「レオ9世 (ローマ教皇)」の記事における「東西教会の分離」の解説
東西教会の分裂を解決するための努力もおこなったといわれる。しかし、コンスタンティノープル総司教のケルラリウス(ミハイル1世)を破門した。これにより、かねてから進行していた東西教会の分離が決定的となった。 1053年には、教皇庁をおびやかすイタリア半島南部のノルマン人勢力と戦ってレオ9世自身が捕虜となり、獄中でマラリアに罹患、翌年にそれがもとで死去した。51歳没。彼の死によってキリスト教の東西教会は最終的に分離した。
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