李中敏
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李 中敏(り ちゅうびん、生没年不詳)は、唐代の官僚。字は蔵之[1]。本貫は隴西郡狄道県[2][1]。
経歴
李嬰の子として生まれた。元和15年(820年)、進士に及第した。その性格は頑固で不興を買っても進言した。中敏は杜牧や李甘と仲が良く、文章にも優れた。大和2年(828年)、沈伝師が江南西道観察使となると、中敏は召し出されてその下で判官をつとめた。入朝して監察御史となり、侍御史に進んだ。大和4年(830年)、司門員外郎となった[2][1]。
大和6年(832年)夏、旱魃が起こった。文宗が雨乞いの詔を出すと、中敏は宋申錫の冤罪を雪ぎ、鄭注を斬るよう上奏したが、聞き入れらなかった。大和7年(833年)、中敏は病を理由に洛陽に帰った。大和9年(835年)に李訓と鄭注が甘露の変で殺害されると、開成元年(836年)に宋申錫の冤罪が雪がれ、中敏は長安に召還されて司勲員外郎となった。ほどなく刑部郎中に転じ、知御史台雑事をつとめた[3][4]。
この年、中敏は諫議大夫に任じられ、理匭使をつとめた。中敏は上奏文の副本を知匭使が検閲する従来のやり方では、言論を率直に皇帝に伝えることができないとして、副本の開封検閲を取りやめ、上奏の取捨選択は皇帝の意志に任せるよう言上した。これは聞き入れられた。ほどなく給事中に任じられた。開成5年(840年)、婺州刺史として出向した。会昌元年(841年)、杭州刺史に転じた。のちに在官のまま死去した[5][6]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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