李中敏とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 李中敏の意味・解説 

李中敏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/27 07:07 UTC 版)

李 中敏(り ちゅうびん、生没年不詳)は、唐代官僚は蔵之[1]本貫隴西郡狄道県[2][1]

経歴

李嬰の子として生まれた。元和15年(820年)、進士に及第した。その性格は頑固で不興を買っても進言した。中敏は杜牧李甘と仲が良く、文章にも優れた。大和2年(828年)、沈伝師が江南西道観察使となると、中敏は召し出されてその下で判官をつとめた。入朝して監察御史となり、侍御史に進んだ。大和4年(830年)、司門員外郎となった[2][1]

大和6年(832年)夏、旱魃が起こった。文宗が雨乞いの詔を出すと、中敏は宋申錫の冤罪を雪ぎ、鄭注を斬るよう上奏したが、聞き入れらなかった。大和7年(833年)、中敏は病を理由に洛陽に帰った。大和9年(835年)に李訓と鄭注が甘露の変で殺害されると、開成元年(836年)に宋申錫の冤罪が雪がれ、中敏は長安に召還されて司勲員外郎となった。ほどなく刑部郎中に転じ、知御史台雑事をつとめた[3][4]

この年、中敏は諫議大夫に任じられ、理匭使をつとめた。中敏は上奏文の副本を知匭使が検閲する従来のやり方では、言論を率直に皇帝に伝えることができないとして、副本の開封検閲を取りやめ、上奏の取捨選択は皇帝の意志に任せるよう言上した。これは聞き入れられた。ほどなく給事中に任じられた。開成5年(840年)、婺州刺史として出向した。会昌元年(841年)、杭州刺史に転じた。のちに在官のまま死去した[5][6]

脚注

  1. ^ a b c 新唐書 1975, p. 4289.
  2. ^ a b 旧唐書 1975, p. 4450.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 4450–4451.
  4. ^ 新唐書 1975, pp. 4289–4290.
  5. ^ 旧唐書 1975, p. 4451.
  6. ^ 新唐書 1975, p. 4290.

伝記資料

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  李中敏のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「李中敏」の関連用語

1
2% |||||

2
2% |||||

李中敏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



李中敏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの李中敏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS