李之紹とは? わかりやすく解説

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李之紹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/24 09:48 UTC 版)

李 之紹(り ししょう、1254年 - 1326年)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人官僚の一人。字は伯宗。東平府平陰県の出身。

生涯

李之紹は幼いころより明敏であったため、東平地方の李謙に学んだ[1]。その後、郷里に戻って教授を行い、名声が広まって多くの学者が集まるようになったという。1294年(至元31年)、クビライが亡くなった事により『世祖実録』の編纂が始まると、馬紹・李謙らの推薦を得て将仕佐郎・翰林国史院編修官に任命された[2]。この時、直学士の姚燧が李之紹の才能を試そうと翰林応酬の文を課したが、李之紹はこれを難なくこなしたため、喜んだ姚燧は以後重用したという[3]

1298年(大徳2年)には祖母の病のため一時帰郷したが、しばらくして編修官に復帰し、さらに将仕郎に昇格となった。その後、1302年(大徳6年)には応奉翰林文字、1303年(大徳7年)には太常博士を歴任したが、1305年(大徳9年)に母が死去したため一時官を辞している。その後復職し、1310年(至大3年)には太常博士・承事郎、1311年(至大4年)には承直郎・翰林待制、1312年(皇慶元年)には国子司業、1316年(延祐3年)には奉政大夫・国子祭酒を歴任した。1317年(延祐4年)12月には朝列大夫・同僉太常礼儀院事に昇格となり、1319年(延祐6年)には翰林直学士と改められたが、病により帰郷した。1320年(延祐7年)には翰林直学士、1322年(至治2年)には翰林侍講学士・知制誥同修国史を歴任したが、1323年(至治3年)に病を理由に官を辞し、1326年(泰定3年)8月に73歳にして死去した[4]

李之紹には李勗という息子がおり、果斎と号して文集を家蔵したという[5]

脚注

  1. ^ 安部1972,28頁
  2. ^ 安部1972,29頁
  3. ^ 『元史』巻164列伝51李之紹伝,「李之紹字伯宗、東平平陰人。自幼穎悟聡敏、従東平李謙学。家貧、教授郷里、学者咸集。至元三十一年、纂修世祖実録、徴名儒充史職、以馬紹・李謙薦、授将仕佐郎・翰林国史院編修官。直学士姚燧欲試其才、凡翰林応酬之文、積十餘事、併以付之。之紹援筆立成、併以藁進。燧驚喜曰『可謂名下無虚士也』」
  4. ^ 『元史』巻164列伝51李之紹伝,「大徳二年、聞祖母疾、辞帰。復除編修官、陞将仕郎。六年、陞応奉翰林文字。七年、遷太常博士。九年、丁母憂、累起復、終不能奪。至大三年、仍授太常博士、階承事郎。四年、陞承直郎・翰林待制。皇慶元年、遷国子司業。延祐三年、陞奉政大夫・国子祭酒。夙夜孳孳、惟以教育人材為心。四年十二月、陞朝列大夫・同僉太常礼儀院事。六年、改翰林直学士、復以疾還。七年、召為翰林直学士。至治二年、陞翰林侍講学士・知制誥同修国史。三年、告老而帰。泰定三年八月卒、年七十三」
  5. ^ 『元史』巻164列伝51李之紹伝,「子勗、蔭父職、同知諸曁州事。之紹平日自以其性遇事優游少断、故号果斎以自励。有文集蔵于家」

参考文献

  • 元史』巻164列伝51李之紹伝
  • 新元史』巻191列伝88李之紹伝
  • 安部健夫『元代史の研究』創文社、1972年



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