李乂
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李 乂(り がい、657年 - 716年)は、唐代の文人・官僚。もとの名は尚真、あるいは字は尚真。本貫は趙州房子県[1][2]。
経歴
幼くして父を失った。12歳で文章を作ることができた。進士に及第し、万年県尉に任じられた。長安3年(703年)、雍州長史の薛季昶の推挙により監察御史に抜擢された。景龍年間、中書舎人・修文館学士となった[1][2]。
李乂は数年のあいだ知制誥をつとめた。景雲元年(710年)、吏部侍郎に任じられた。宋璟や盧従願とともに官吏の選挙をつかさどり、功績の評価や人事の昇降が公平なことで知られた。ほどなく黄門侍郎に転じた。ときに睿宗が金仙観と玉真観を造営すると、李乂はしきりに上疏して諫めた。開元初年、李乂は中書侍郎の蘇頲とともに起居注を編纂するよう命じられ、玄宗の名言については別に編纂して上奏した。李乂は門下省にあって、多く詔勅の封駁をおこなった。姚崇が紫微令となると、李乂は推薦を受けて紫微侍郎となった。まもなく刑部尚書に任じられた[3][2]。開元4年(716年)1月、死去した[4]。享年は68。黄門監の位を追贈された。諡は貞といった。編著に兄の李尚一や李尚貞と共著した『李氏花萼集』20巻があった[3][5]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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