春信の死から歌麿へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 08:57 UTC 版)
春信は明和7年(1770年)に急死するが、その後、美人画では北尾重政のよりリアルな表現が後の浮世絵師たちに多くの影響を与え、役者絵では、勝川春章や一筆斎文調らが、従来の鳥居派のものとは異なる独自の作品を描いていった。安永後期から天明の頃には役者絵は勝川派が独占、春章を始め、彼の門人の勝川春英や勝川春好らが活躍している。また、寛政期になると、美人画においては喜多川歌麿を輩出、世間は歌麿風美人画の全盛期となるが、寛政2年(1790年)に浮世絵の表現内容を検閲する改印制度ができてその出版に様々な禁令が出た。同じ時期、旗本出身の鳥文斎栄之は高雅で気品の溢れる清楚な美人画をえがいて歌麿に拮抗、門人の栄昌、栄里、栄水、栄深らは歌麿の影響を受けた美人画で、また栄松斎長喜も独自の個性によって時代を謳歌した。役者絵においては東洲斎写楽らを輩出、大首絵が流行している。この写楽の真に迫る役者絵は歌川豊国、歌川国政らに影響を及ぼしている。
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