早稲田大学と革マル派の関係の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 07:01 UTC 版)
「川口大三郎事件」の記事における「早稲田大学と革マル派の関係の終焉」の解説
しかし、1994年(平成6年)、早稲田大学総長に奥島孝康が就任すると早稲田大学と革マル派の関係は大きく変わった。 1996年(平成8年)、早稲田大学の学園祭「早稲田祭」で不正な資金流用の疑いがあることが判明した。この問題で早稲田大学と革マル派は早稲田祭の開催を巡って対立し、大学に不信・反感を持った革マル派は1997年(平成9年)、早稲田大学の関係者の自宅に盗聴器を仕掛けて早稲田大学側の動きを探った。そして、革マル派の関係者が警察に逮捕された。(早稲田大学学生部長宅盗聴事件) この事件を契機に早稲田大学は革マル派に対して厳しい姿勢で臨み、早稲田祭の中止を決定、早稲田祭実行委員会を活動禁止処分、早稲田大学新聞会をサークル公認取り消し、そして、革マル派の関係者を大学内から次々に排除していった。革マル派を排除した後、新左翼などの団体が再び早稲田大学に復活することはなかった。なぜなら、その頃の日本は全国的に学生運動が衰退し、その運動の意味すら知らない多くの学生が学生運動に興味を持つのは無理だったからだ。こうして、早稲田大学は革マル派の掃討・追放に成功したのだった。
※この「早稲田大学と革マル派の関係の終焉」の解説は、「川口大三郎事件」の解説の一部です。
「早稲田大学と革マル派の関係の終焉」を含む「川口大三郎事件」の記事については、「川口大三郎事件」の概要を参照ください。
- 早稲田大学と革マル派の関係の終焉のページへのリンク