旧黎朝勢力との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 00:12 UTC 版)
1530年、黎朝の宗室の外孫を名乗った黎意が椰州にて起兵し、昭宗の時期の元号であった光紹の号の回復を宣言した。この反乱に黎朝の遺臣たちが結集し、兵の数は瞬く間に数万にまで膨れ上がった。太上皇であった莫登庸は親征して討伐に向かったが、連戦連敗を喫して昇龍に撤退し、黎意の軍は西都城を占領した。次いで莫登瀛の親征軍も大敗を喫するが、直後に麟国公莫国楨の奇襲によって黎意は捕らえられ、昇龍にて車裂きの刑に処された。しかし黎意の残党の一部は阮淦の下に逃亡し、阮淦は昭宗の息子を自称する黎寧を、皇帝として擁立した(荘宗)。 その後も黎朝の遺臣による反乱は相次ぎ、莫登庸は農民から槍・刀・ナイフなどの武器を没収し、違反者には刑罰を定めた。これにより莫朝の治安は好転し、「道端の拾い物を収奪する者はおらず、戸締まりをせずとも外を出歩ける」と言われるほどであったという。
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