日系移民内での摩擦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/02 00:42 UTC 版)
栗本新蔵は、熊本県の出身で、先にペルーに移民していた兄の呼び寄せにより、1914年(大正3年)ペルーへ渡った。この兄の事業を継承する形で理髪店に入った。その仕事ぶりは熱心で、店舗の充実にも力をいれていた。1935年当時(昭和10年頃)、日本ではパーマネントが流行の兆しをみせていた。栗本は、これにいち早く反応し、日本からリマの自分が経営する店に取り入れた。これが評判をよび、店は繁盛した。また栗本は、理髪業者組合の組合長を勤めており、リマの日本人移民の中で有力者であった。 この状況に目をつけた静岡出身の古屋時次郎は、すぐに日本に一時帰国しパーマネントの技能を習得した。再びリマに戻り、パーマネントも扱う「サロン・ホリウッド」(原文ママ)を開業した。 古屋はいわゆるやり手であった。古屋の店は繁盛し、アメリカ製のパーマネントの最新機械を買い入れ、大統領夫人をはじめ有名人や有力者も客につくようになった。古屋の妻、古屋リエは後年インタビューに、「義侠心があり親分肌で、人の借金の保証人になり大きな被害を受けたり、競馬に入れあげたりと困った」と話している。また古屋はペルーに帰化し、ペルー人の友人も多かった。このような古屋の性格と行動は、栗本など日本人移民の同業者の強い反感を買うことになった。
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