日本乞師とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 学問 > 歴史民俗用語 > 日本乞師の意味・解説 

日本乞師

読み方:ニホンキッシ(nihonkisshi)

17世紀日本への軍兵兵器派遣求請。


日本乞師

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/13 00:53 UTC 版)

日本乞師(にほんきっし)は、の滅亡後南下してきたに対抗する南明及びその支持勢力(鄭氏政権など)が日本江戸幕府)に対して軍事支援を求めた行動。

概要

1644年(日本の正保元年)、李自成率いる大順が明の首都・北京を制圧して明朝最後の皇帝崇禎帝が自害すると、清が満洲より南進し、大順軍を破って北京を制圧し、そのまま旧明領制圧の軍を進めた。これに対して華中華南では、明の皇族を擁立して「反清復明」を唱え、清への抵抗と明の再興を目指す南明勢力が形成された。彼らは近隣で相当の軍事力を保有していた日本に軍事支援を求め、連合して清軍を駆逐することによって明朝再興を果たそうと考えた。

1645年鄭芝龍及び崔芝が、相次いで日本に軍隊派遣を要請する使者を送った。以後、鄭芝龍の子・鄭成功及びその子鄭経と3代にわたって、軍事支援を求めて1674年(日本の延宝2年)まで30年間に10回の使者を日本に送った。また、この他にも黄宗羲ら明朝再興を働きかける人々によっても使者が派遣されたが、既に鎖国体制に入っていた江戸幕府は軍事的な支援には否定的であり、貿易などの形式で倭刀などの武器や物資の調達を許すことはあっても、支援そのものには黙殺の姿勢を貫いた。また、琉球王国(同国及び薩摩藩を経由した江戸幕府への支援要請も含む)や南洋諸国、遠くはローマ教皇庁まで乞師の使者を派遣したことがあったが[1]、いずれも不成功に終わった。

脚注

  1. ^ 奈良修一『鄭成功―南海を支配した一族』山川出版社〈世界史リブレット人〉、2016年9月1日、34頁。ISBN 978-4634350427 

参考文献

関連項目



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日本乞師」の関連用語

日本乞師のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



日本乞師のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの日本乞師 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS