新九谷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 05:45 UTC 版)
明治時代に入り、九谷焼は主要な輸出品となり、欧米で人気を集めた。1873年のウィーン万国博覧会などの博覧会に出品されると同時に西洋の技法も入り込んだ。1872年頃から型押しの技術が九谷焼にも取り入れられ1892年頃から、獅子をはじめとする置物の製作が盛んとなり、大正時代になると型が石膏で作られるようになり量産化が進んだ。 また、明治維新による失業士族の授産施設として1872年(明治5年)に誕生した金沢区方開拓所製陶部は、砂子吉平、初代諏訪蘇山等の参加を得て成果を上げ、1876年(明治9年)には、石川県勧業場と名を改めた。1887年(明治20年)金沢工業学校(現在の石川県立工業高等学校)が開校し、次代の陶芸家が育成されるようになった。
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