敬雨時代
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享保4年(1719年)京都紫野大徳寺養育院裏清心庵の一角に菩提庵を構えた。『雨の集』を撰じ、夢で驚雷の二字を感得したことから敬雨と号した。享保9年(1724年)甲斐国に鈴木調唯を訪れた。後に飛鳥井町(上京区)に移った。 享保16年(1731年)夏、早雲寺に石霜庵を構え、また玉笱山人と号した。蕉風復古を目指す五色墨、四時観等の会に賛同し、これらの活動に関わった。享保18年4月23日(1733年6月5日)死去。辞世は「この世をばぬらりくらりと死ぬるなり地獄潰しの極楽の助」。遺体は早雲寺に葬られた。享保20年(1735年)富岡八幡宮に祇敬霊神として祇空を祀る祠が建てられ、現在は碑のみ残る。 死後、享保16年(1731年)弟芳室による『石霜庵追善集』、慶紀逸の『六物集』、元文4年(1739年)千鹿『卯花月』、寛延元年(1748年)仲上法策『敬雨十三回忌集』等の追善句集が出され、文政3年(1820年)には青流洞四世を名乗る稲津祇杖が『祇空九十回忌集』を刊行している。
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