慈覚大師円仁の求法の旅を支援
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「張保皐」の記事における「慈覚大師円仁の求法の旅を支援」の解説
9世紀前半、山東半島の港町・赤山(当時多くの新羅商人が居留するところとなっていた)に赤山法華院を寄進するとともに、短期で帰国しなければならなかった入唐請益僧円仁の長期不法在唐を実現(不法在留を決意した円仁のために地方役人と交渉して公験(旅行許可証)下付を取り付ける)したのを始め、円仁の9年6ヶ月の求法の旅を物心両面にわたって支援した。円仁の日本帰国時には張保皐自身はすでに暗殺されていたが、麾下の将張詠が円仁の帰国実現に尽力した。円仁の『入唐求法巡礼行記』には、直接会ってはいないが、張宝高の名前が数箇所登場している。 京都の「赤山禅院」は円仁の弟子が円仁の志を継いで新羅人の神を祭るために888年(仁和4年)に建てたものである。 円仁は五台山の一つ北台叶斗峰(3058メートル)に登頂した際に手に入れた香木で文殊像を造り、帰国実現ののち861年(貞観3年)10月、延暦寺に文殊楼を建立(織田信長の比叡山焼き討ちで焼亡。現在の文殊楼は再建したもの)したが、この円仁の延暦寺文殊楼脇には「清海鎮大使張保皐碑」が建てられている。
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