志摩国の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/20 05:26 UTC 版)
『延喜式』によると、志摩国は10日毎に「鮮鰒(なまのあわび)、さざえ、蒸鰒(むしあわび)」を納めることが定められていた。また節日ごとに「雑鮮の味物」の献上も定められていた。 平城京跡から発見された木簡に「志摩国志摩郡」の表記が見られ、当初は志摩国は一国一郡であったと推定される。その後の『延喜式』では答志郡、英虞郡の二郡である。田畑はわずかで、口分田として尾張国、伊勢国にあった田が志摩国に割当てられている。先に述べた若狭と同様にこのような小国の成立は、小島が点在した地理的条件とともに、政治・宗教的な特殊事情があったと推定される。 以下でも述べるように、志摩国と内膳司を支配していた高橋氏との間に特殊な関係を指摘する意見がある。また平城京の木簡からは志摩国の贄を納めた氏族として大伴部の名前が多く見つかっている。
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