当初建設計画の挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/21 04:25 UTC 版)
「奥田駅 (富山県)」の記事における「当初建設計画の挫折」の解説
1935年(昭和10年)1月末に完成した富岩運河は、東岩瀬港と富山駅北の船溜を水運によって連絡するものであったが、これに附随して富山県は船溜方面へ向う引込線を建設し、陸運による貨物輸送を可能にする計画を立てていた。この引込線の経路は1933年(昭和8年)3月に富山駅東側より北西方向に分岐し、富岩鉄道線と平面交叉して船溜へ向うものに決定して路盤整備が行われ、1935年(昭和10年)には富岩運河上流東側に綾羽紡績の工場が建設されることが決定したので、北陸本線より船溜を経由して同工場へ向う引込線も合せて建設が計画された。前者の富山駅東側より北西方向に分岐し、富岩鉄道線と平面交叉して船溜へ向う引込線は富山県が担当し、後者は富山市が担当する形で1935年(昭和10年)6月までに建設を行う予定であったが、富岩鉄道は一連の計画に対し、運河周辺が工場地帯となることで同社線における貨物輸送需要が減少することに危機感を抱いてこれに反撥し、富山県や富山市と対立した。富山県、富山市及び綾羽紡績は、富岩鉄道に対しその建設する引込線の経営を同社へ委任するという妥協的条件を示してこれに譲歩したが、富岩鉄道は応じず、綾羽紡績の工場建設も1936年(昭和11年)に至って中止となった。
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