弓場組
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/28 23:33 UTC 版)
弓場組は、2代藩主島津忠興が武道奨励のために組織した。飫肥藩や、家督争いになった垂水島津家を警戒してのことだったという。 15歳から30歳までの若い男子を正員とし、30歳から59歳までを准組員とし、佐土原城下の4つの守り口(追手、鴫之口、野久尾、十文字)と5つある外城(都於郡、三財、三納、新田、富田)に弓場、馬場そして衆溜と呼ばれる会所が設けられていた。 最初は各衆溜に集まり、武道上の協議をしていたが、やがて政治問題を話し合う場に発展し、衆議で決定されたことは絶対となり、藩庁の命令も及ばないほどになり、8代久柄の時代の天明騒動、10代忠徹の時代の御牧騒動、また鴫之口騒動など藩を揺るがす事件を起こした。 また、弓場組は城下士の中でも序列を作り、追手口は歴々、鴫之口は半重半軽、野久尾口、十文字口は全軽といわれ、藩内は不自由な空気になっており、このことが明治になってからの城の移転という極めて異例の政策を佐土原藩に採らせる原因となる。
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