平教盛の子通盛の子孫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 02:33 UTC 版)
系図は「山﨑姓系圖」と題され、桓武天皇から表記が始まっている。『槇山風土記』の山﨑姓系図と物部山﨑家分家所有の系図では平教盛の子孫ということしかわからないが、鴨部山﨑家系図ではさらにその子の通盛の子孫ということまで記されている。教盛は壇ノ浦赤間関にて入水、通盛は一の谷にて討ち死にしたと記されている。 山重の長男の玄蕃丞盛高は戸次川の合戦(豊後)で討ち死にした。次男の四郎左衛門盛治は山川村(旧香我美町)に住んだ。その長男の又左衛門盛清は大津村(高知市)に移住し、その後正延村(旧香我美町)に移住している。その弟二人は大津村(高知市)に移住している。長宗我部地検長の中の鴨部村地検帳にもその名がみえる。三男の勘解由左衛門は山﨑村(塩部落)に住んだと明記されている。四男の四郎兵衛は土佐郡莇野(あざみの)(高知市薊野〈あぞうの〉)に住んだ。五男の惣兵衛は土佐郡石立村(高知市石立町)に土地を給地された。戸次川の合戦で討ち死にしている。六男の源左衛門盛信は土佐郡鴨部村(現高知市鴨部)に住み、今日の鴨部山﨑家の祖となった。七男の七郎次郎は奈和利(なわり)(奈半利町)に住んだ。田野(田野町)にも土地を持った。八男の八郎左衛門は佐川番衆の一人として佐川郷に給地(佐川番給地)を得て、片岡氏に仕え、三野村(本三野:佐川町乙三野)に居住した。文徳に給地があった。九男の九朗左衛門は特記事項なし。
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