川崎監督時代
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1960年 この年も中西が故障で32試合の出場にとどまり、稲尾の出遅れもあり序盤は最下位になるなど低迷、前半戦は5割そこそこの成績で折り返すが、後半にかけ復調した稲尾が20勝を挙げるなど3位となるが、首位の大毎オリオンズや2位の南海に大きく負け越しての結果となった。 1961年 稲尾が序盤から勝利を重ね7月11日には日本プロ野球史上最速の20勝到達となったが、この時点で他の投手全員の勝利数が19勝で稲尾が半分以上を占めていた。稲尾はこの年シーズンの半分以上の78試合、404イニングを投げ日本プロ野球タイ記録となる42勝 を挙げ、また353奪三振のシーズン日本プロ野球記録(当時)を樹立するが、チームは2年連続3位に終わり、川崎が監督を辞任。シーズン終了後、選手兼任監督の中西、選手兼任助監督の豊田、選手兼任投手コーチの稲尾による「青年内閣」が誕生する。
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