山鹿城 (筑前国)とは? わかりやすく解説

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山鹿城 (筑前国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 05:44 UTC 版)

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山鹿城
福岡県
城郭構造 山城
築城主 藤原藤次
築城年 天慶年間
主な城主 山鹿氏麻生氏
廃城年 天正15年(1587年)頃
遺構 曲輪土塁
位置 北緯33度53分50秒 東経130度40分11秒 / 北緯33.89722度 東経130.66972度 / 33.89722; 130.66972座標: 北緯33度53分50秒 東経130度40分11秒 / 北緯33.89722度 東経130.66972度 / 33.89722; 130.66972
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山鹿城(やまがじょう)は、福岡県遠賀郡芦屋町にあった日本の城山城)。

概要

福岡県遠賀郡芦屋町の標高40mの丘陵上にあり、遠賀川河口部に位置する水運の要衝だった。城跡は北西・東南方向が主軸となっており、本丸二の丸はそれぞれ60×20m、70×30mほどの広さだった。本丸南の急斜面の下にはかつて三の丸があり、現在は白山神社となっている。

歴史

天慶年間鎮西奉行となった藤原秀郷の弟・藤原藤次により、築城された。藤次は姓を山鹿に改め、山鹿氏は当城を代々の居城とした。寿永2年(1183年)の平家の都落ちの際には、安徳天皇をはじめ平氏一門を山鹿秀遠が当地に迎えた。秀遠は平氏とともに敗れ、当城も鎌倉幕府に没収された。

鎌倉時代には宇都宮家政に山鹿氏の旧領が与えられ、以後は山鹿姓を名乗った。室町時代には庶流の麻生氏花尾城で権勢を伸ばし、本家の山鹿氏も支配下に入った。やがて大内氏が北九州方面に進出すると、麻生氏とともに麾下に組み込まれた。戦国時代には麻生氏の出城となり、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐後は廃城となった。

参考文献

関連項目




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