山本茂 (実業家・政治家)とは? わかりやすく解説

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山本茂 (実業家・政治家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/04 15:22 UTC 版)

山本 茂
やまもと しげる
松山町より公表された肖像 1969年
生年月日 (1889-07-27) 1889年7月27日
出生地 大日本帝国 和歌山県日高郡上山路村(現・田辺市
没年月日 (1970-08-18) 1970年8月18日(81歳没)
死没地 宮崎県都城市
所属政党 無所属
称号 勲六等単光旭日章

当選回数 4回
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山本 茂(やまもと しげる、1889年明治22年〉7月27日[1] - 1970年8月18日)は、日本政治家実業家鹿児島県松山町議会議長(2期)、松山町議会議員(4期)、松山遺族会会長、松山町商工会会長などを歴任した。

概要

1889年明治22年〉、和歌山県日高郡上山路村(現・田辺市)に生まれる[2]

1913年大正2年〉、23歳の時に医師を志して家を出て、親類を頼って人吉へ移った。1917年〈大正6年〉、製材所で勤めていた茂は、親類の杭木商・古久保安次郎の手引きで松山へ移った。翌1918年〈大正7年〉、28歳の時に水力利用の製材所を興し、以後製材業を続け、1940年昭和15年〉、囎唹郡製材統合株式会社副社長・郡内伐出組合長・県坑木組合囎唹支部長・県平木組合長に就任した。

1942年〈昭和17年〉村会議員に当選し、終戦後は一期休んでからその後、3期当選した。その間には松山町議会の第2・6代議長を務めた。また、1951年〈昭和26年〉に現在の製材所をつくり、株式会社とした。そのほかにも郡林産協同組合長や商工会会長(昭和34年設立以来)、遺族会長や農業会、農協の役員を終生務めた。 1963年〈昭和38年〉には長年の功労が評され、松山町初の名誉町民の決定を受け、翌年1月推戴式が挙行された。

1970年〈昭和45年〉8月18日、宮崎県都城市にて亡くなった。(享年81歳)

没後、松山町による町葬が執り行われ、勲六等単光旭日章が追贈された。

人物

  • さまざまな相談を請け負い、町の振興に寄与したことから、「親分」として町民から慕われていた。[3]
  • 山本氏の流れを汲む。[4]

家族

  • 山本しのぶ (妻・婦人会会長)
  • 山本勝 (長男・戦病死)
  • 山本守 (子)
  • 山本隆萬(曾孫)

脚注

  1. ^ 『松山町郷土史』松山町役場、1969年、115頁。
  2. ^ 『松山町郷土史』115頁。
  3. ^ 『愛ありて-ともに老人福祉に生き-』山本守・山本弘子 2012年
  4. ^ 『愛ありて-ともに老人福祉に生き-』山本守・山本弘子 2012年、p.70



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