小笠原安勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/17 07:16 UTC 版)
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| 時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 | 
| 生誕 | 天文19年(1550年) | 
| 死没 | 寛永18年2月3日(1641年3月14日)[1] | 
| 別名 | 喜三郎、太郎左衛門[1] | 
| 戒名 | 良清[1] | 
| 墓所 | 天岑寺[注釈 1][1] | 
| 幕府 | 江戸幕府 旗本 | 
| 主君 | 徳川家康、秀忠、家光 | 
| 氏族 | 小笠原氏 | 
| 父母 | 父:小笠原安元 | 
| 兄弟 | 安次、左大夫、安勝、小笠原広重の妻[2] | 
| 子 | 安村、小笠原広正の妻、前島重正の妻[1] | 
小笠原 安勝(おがさわら やすかつ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。徳川家康の家臣。
生涯
三河国幡豆郡の国人である小笠原安元の三男。父兄とともに徳川家康に仕え、自身は側近として近侍した。永禄12年(1569年)掛川城の戦いでは敵兵と直に槍を合わせる活躍をし、以降小谷城の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いなどに従軍して功績があった[1]。
天正18年(1590年)家康が関東に移封されると、武蔵国入間郡田中[注釈 2]450石余に移り、文禄3年(1595年)には亡父安元を同郡沢に改葬し、少林寺3世の天海盛呑を招いて天岑寺を建立している。後に知行高は490石となり、以後幕末まで子孫は旗本として同地を知行した[3][4][1]。
寛永年間に致仕して家督を子の安村に譲り、寛永18年(1641年)に92歳で死去[1]。
脚注
注釈
出典
参考文献
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