寺井純司とは? わかりやすく解説

寺井純司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/16 14:09 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
寺井純司

寺井 純司(てらい じゅんじ、1850年6月18日嘉永3年5月9日[1])- 1917年大正6年)11月17日)は、明治期の政治家。勲四等

経歴

弘前藩士の子。藩校「稽古館」で国学漢学を修めたのち、藩命により箱館ロシア語を学び、1869年(明治2年)慶應義塾政治学法律学を修める。南部盛岡藩征討、箱館の乱、賊徒追討で軍功を挙げ藩主より金百を賜る。弘前英漢学校一等教授となり県会議員となる。皇典研究所委員、高等学校設置委員を務め1902年(明治35年)衆議院議員となる。陸奥日報を創刊し社長となる。

脚注

  1. ^ 衆議院『第十八回帝国議会衆議院議員名簿』(第十八回帝国議会衆議院公報第一号附録)〔1903年〕、17頁。

参考文献





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「寺井純司」の関連用語

寺井純司のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



寺井純司のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの寺井純司 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS