宣帝即位後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 23:03 UTC 版)
元平元年(前74年)に昭帝が死去する。跡継ぎがなかったため、当時実権を握っていた大司馬大将軍の霍光は、劉髆の子で武帝の孫である昌邑王劉賀を後嗣として迎えた。しかし劉賀はあまりの品行の悪さから在位28日で廃され、劉病已が宣帝として即位する。 夫である宣帝の即位後、平君はまず、側室である婕妤として後宮に迎えられた。当時、霍光の末娘である霍成君が入内して皇后に立てられるであろうという観測が主流であったが、宣帝が平君を皇后としたい気持ちを暗に示し、群臣も彼女を立てることに同意する。 正式に皇后に立てられた後も、平君は質素な生活を忘れず、常に慎ましやかに行動し、上官皇太后(昭帝の皇后で霍光の孫)を敬って礼節を保ったため、賢明な人柄として人望を集めた。しかし、彼女は皇后となって2年後、第2子を出産した際に、宮廷の女医が勧めた丸薬を飲んで急死する。霍光の夫人である顕が、娘の霍成君を皇后に擁立するため、女医に命じて毒を盛らせたのだった。
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