安田田騏とは? わかりやすく解説

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安田田騏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 05:50 UTC 版)

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象のいる異国風景図 絹本油彩

安田 田騏(やすだ でんき、天明4年(1784年) - 文政10年4月11日1827年5月6日))は、江戸時代後期の絵師銅版画家である。

来歴

東東洋及び亜欧堂田善の門人。名は騏。字は日千といい、東嶽田、東嶽、台方菴などと号した。東嶽田というのは、二人の師に由来するものといわれている。仙台の出身。師であった田善の画法を継いだ画家の中で、最も優れた門人が安田田騏であった。仙台の浪士であり、始め仙台藩狩野派絵師東東洋に絵を学び、寛政1789年-1801年)年間に須賀川に移ってから丹波屋(安田家)に入り、田善に師事している。また、白河藩主御内寺の東林寺住職に請われて、松平定信編纂の『集古十種』にも関与した須賀川の十念寺の画僧白雲谷文晁にも学んでいる。文化12年(1815年)制作の銅版画「観魚亭」などが知られている。「観魚亭」とは、白河候御用達常松家の別邸を描いたものであった。銅版画のほか、肉筆画も残しており、白雲や田善とともに松平定信の画臣でもあった田騏は、文政10年(1827年)4月11日、病のため陸奥国磐前郡佐波古村(現・福島県いわき市常磐湯本町)において44歳で没した。墓所はいわき市常磐湯本町の惣善寺。この寺には、田騏の妹の夫、柴原太真と門人達が建立した墓碑がある。法名は田英道騏信士。

作品

参考図書

  • 浮世絵の基礎知識 吉田漱、雄山閣、1987年



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