威徳寺の掛所昇格問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 18:17 UTC 版)
石徹白は白山中居神社の社領であり、住民も神社の社人であったが、そのような石徹白にも浄土真宗の勢力が伸びつつあった。石徹白には高山の照蓮寺付きの道場である威徳寺が建てられ、照蓮寺から看坊が派遣されるようになった。六代目看坊の恵俊は長年石徹白に派遣される中で信者も増えてきたため、威徳寺を照蓮寺の掛所として寺格を得て、自ら住職となって威徳寺に永住することを願うようになった。 恵俊はまず浄土真宗門徒に声をかけ、石徹白、そして近隣の集落を歩き回って寄付を募り、宝暦2年(1752年)には十数年の年月をかけて威徳寺の本堂を建立した。本堂を完成させた恵俊は続いて京都の東本願寺に、石徹白は白山中居神社の社領であり住民は同神社の社人であるので、今後も浄土真宗が栄え続ける保障はないので、威徳寺を照蓮寺の掛所に指定して浄土真宗興隆の拠点としたいとの願書を提出した。本願寺は恵俊に対して石徹白の住民たちの了解を取ったのかについて確認したところ、実際には了解を取っていないのにもかかわらず、神主、郡上郡役所の了解を得ているとの偽りの報告をした。 宝暦2年10月18日(1752年11月23日)、東本願寺は威徳寺を掛所に指定した。高山の照蓮寺は掛所指定の確認のため、石徹白に使僧を派遣し、住民たちから承諾の受書捺印を行った。その際恵俊は、今回、門首の意思によって威徳寺が掛所に指定されたので、ありがたくお受けするようにとの嘘をつき、石徹白住民を説得して受書への捺印を進めた。
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