奥平昌猷とは? わかりやすく解説

奥平昌猷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/28 13:23 UTC 版)

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奥平昌猷
奥平昌猷像(自性寺蔵)
時代 江戸時代後期
生誕 文化10年3月25日1813年4月25日
死没 天保13年9月17日1842年10月20日
改名 勇吉・九八郎(幼名)→昌猷
戒名 潜竜院殿大淵道珍大居士
墓所 大分県中津市新魚町の自性寺
官位 従四位下、大膳大夫
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶
豊前中津藩
氏族 奥平氏
父母 父:奥平昌高、養父:奥平昌暢
兄弟 姉(松平頼縄室)、富之進、昌暢、得之助、圭太郎、昌猷、妹(加藤泰理室)、妹(永井尚典室)、生駒親愛、妹(酒井忠方室)、妹(成瀬正住室)、妹(稲葉幾通室)、牧野忠直、池田慶政、金之助、生駒親道、妹(島津忠寛室)、青木一咸、妹(池田喜通室)、隼之丞、妹(菅沼新八郎室)、妹(四条隆謌室)、妹(内藤頼愛室)、妹(相良長福室)、妹(松平慶憲室のち堀田正誠室)
正室:なし
娘(松平忠国正室)
養子:昌服

奥平 昌猷(おくだいら まさみち)は、豊前中津藩の第7代藩主。中津藩奥平家11代。

文化10年(1813年)3月25日、第5代藩主・奥平昌高の五男として中津で生まれる。天保3年(1832年)11月に兄で第6代藩主の昌暢が死去したため、天保4年(1833年)1月29日に養子として家督を継いだ。直後の11月に百姓一揆が起こるなどしている。

このため、天保6年(1835年)に黒沢庄右衛門を登用して藩政改革を行い、専売の強化を行うなどしている。天保9年(1838年)12月16日に従四位下・大膳大夫に叙位・任官する。天保12年(1841年)に家臣の半知借上を行った。

兄・昌暢と同じく父に先立って天保13年(1842年)9月17日に中津で死去した。享年30。跡を昌暢の遺児で養子の昌服が継いだ。





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