大漢義軍を率いて
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1935年(民国24年)、王英は日本に投降し、梅津美治郎から大漢義軍司令に任命された。翌年11月、王英は、デムチュクドンロブ(徳王)・李守信率いる蒙古軍とともに綏遠を攻撃した。しかし、綏遠省政府主席・傅作義らの反撃の前に敗れた(綏遠事件)。1937年(民国26年)、綏西自治委員会委員長となる。1939年(民国28年)11月、綏西自治聯軍総司令に就任した。形式上、王英はデムチュクドンロブ配下であったが、実際には日本軍の命令を直接受けたとされる。その後、傅作義と戦いを繰り広げたが、総じて劣勢であった。 日本敗北後は、軍を率いて傅作義に投降し、騎兵第1集団軍総司令に任命された。さらに第12戦区騎兵第14縦隊縦隊長に異動している。1946年(民国35年)秋、北平で国民政府軍事委員会委員長北平行営高級参謀に任命された。その後、平蒲路剿共軍総司令にも任じられている。 中華人民共和国成立後に王英は当局に逮捕された。1950年5月23日、王英は漢奸・反革命の罪により北京市人民法院で死刑判決を受け、上告したものの最高人民法院でも原判決が維持された。同年11月4日、北京市で王英の銃殺刑が執行された。享年56。
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