大湯氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 04:50 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動大湯氏 | |
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種別 | 武家 士族 |
出身地 | 陸奥国鹿角郡大湯村[1](現 秋田県鹿角市) |
著名な人物 | 大湯昌光 大湯昌次 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
大湯氏(おおゆし)は、日本の氏族。出自は武蔵七党横山党・成田氏の系譜を引く鹿角奈良氏嫡流とされ、現 秋田県鹿角市にあたる陸奥国鹿角郡大湯村の在名により氏とした。
歴史
鎌倉中期に鹿角に入部し、室町~戦国期にかけては安東氏や津軽氏と結び、永禄元年(1558年)安東愛季の誘いに応じ名代の大高筑前と見参したり、同8年(1566年)秋田方の廻文に加判を行った一人として名を連ね、戦国後期には他の鹿角郡の領主と同様に南部勢力下にあり、天正17年(1589年)南部信直の比内大館城攻めにはその麾下を努めている。
大湯昌光は、南部信直に仕え、大湯村及び近村2000石を領知し、大湯館城に住して、南部支族の毛馬内氏と縁戚を重ねていたが、天正19年(1591年)の九戸政実の乱では、兄弟相対峙する状況となり、兄の彦六(五兵衛)昌忠は信直麾下の包囲軍の中に、次子四郎左衛門昌次が嫡子四郎左衛門、二男治郎左衛門、三男彦左衛門を伴い、同郷の大里修理大夫親治と共に九戸方の重鎮として荷担したが、大湯城は三戸方の大光寺正親勢の包囲攻撃を受けて落城した[2]ため九戸城に遁れたが、九戸城降伏のさい、政実ら主だった首謀者達として集められて栗原郡三迫(宮城県栗原市)で処刑されたが、治郎左衛門、彦左衛門の兄弟は津軽へ落行、後に次(治)郎左衛門は召し出され知行200石を拝領し、彦左衛門は津軽に奉公した[3]。
大湯氏の直系は、五兵衛昌忠の子 多聞之助正邦が正保年間(1644~48年)に死去することに及んで断絶した。
系譜
参考諸家系圖 <<異姓之 >> 大湯氏 本名 姓 大湯五兵衛 昌光 ┏━━━━━━┻━━━━━┓ 四郎左衛門 五兵衛 昌次 昌忠 ┏━━━━┻━━━┓ ┃ 彦右衛門 次郎右衛門 多聞之助 昌到 昌吉 正邦 (津軽出奔) (津軽出奔仕津軽) ┃ 津軽家出仕 昌対 参考諸家系圖・奥南落穂集
脚注
参考文献
太田亮「大湯 オホユ」『国立国会図書館デジタルコレクション 姓氏家系大辞典』第1巻、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、1340-1341頁。全国書誌番号:47004572。 NCID BN05000207。 OCLC 673726070。
- 『南部藩参考諸家系図』国書刊行会。
- 『岩手県史』第3巻 中世篇 下、岩手県、1961年10月20日。
- 「角川日本姓氏歴史人物大辞典」編纂委員会『岩手県姓氏歴史人物大辞典』第3巻、角川書店〈角川日本姓氏歴史人物大辞典〉、1998年5月18日。 ISBN 4-04-002030-8。
- 児玉幸多、坪井清足『日本城郭大系』第2巻 青森・岩手・秋田、新人物往来社、1980年7月15日。
外部リンク
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