多羅尾光太とは? わかりやすく解説

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多羅尾光太

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 20:00 UTC 版)

 
多羅尾光太
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文21年(1552年
死没 正保4年1月21日1647年2月25日
別名 彦市、久右衛門、左京進(通称
戒名 超雲
墓所 浄顕寺(滋賀県甲賀市
幕府 江戸幕府代官
主君 豊臣秀吉徳川家康秀忠家光
氏族 多羅尾氏
父母 多羅尾光俊伊勢貞孝の養女
兄弟 神山佐渡室、光当、光太光雅、伊兵衛、山口光広、光時
竹内秀勝の娘、山角豊前守の娘
好光、光之、光氏、光尚、光正、虎松、豊臣秀次室、和田六郎左衛門室、中坊秀政室、大藤金左衛門室
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多羅尾 光太(たらお みつもと)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将江戸幕府代官

生涯

天文21年(1552年)、近江国甲賀郡の国人・多羅尾光俊の子として誕生。

天正10年(1582年)、徳川家康伊賀越えに際し、父と共にこれに協力した。その後は豊臣氏に仕え、長女が豊臣秀次の側女になったが、秀次失脚に連座して改易、長女は処刑された。

慶長元年(1596年)からは徳川氏に仕え、既に出仕していた弟・光雅の所領を分けられて甲賀郡に1500石を領することになった。関ヶ原の戦い大坂の陣のいずれもに従軍した。寛永6年(1629年)に致仕。なお、次女は幼少期より徳川家康に仕えた。

正保4年(1647年)、死去。

参考文献




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