土岐光定とは? わかりやすく解説

土岐光定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/21 07:48 UTC 版)

 
土岐光定
時代 鎌倉時代後期
生誕 未詳
死没 弘安4年8月11日1281年9月25日
別名 五郎(通称)、光貞、定光(法号)
官位 従五位下隠岐
幕府 鎌倉幕府
氏族 土岐氏
父母 父:土岐光行、母:東胤頼の娘
兄弟 国衡、饗庭光俊、光氏、国慶、光定、光員[1]、光家、頼命、頼有、親行
正室:不明[2]
隠岐国時、高田衡国、阿波教国、笠毛光教(光時)、隠岐胤国、蜂屋定親、頼貞[3]舟木頼重[1]、光包?[4]
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土岐 光定(とき みつさだ)は、鎌倉時代後期の武将美濃源氏嫡流土岐氏土岐光行の五男。

略歴

得宗家から妻を迎えるなど光定の時代には土岐氏が美濃の有力御家人へと成長していたことが見て取れる。また、光定は美濃国内の本領のみならず伊予国地頭職を得ていたといわれ、任地に下って所領の経営にあたったとされる。

吾妻鏡建長2年(1250年)3月1日条に「土岐左衛門跡」が閑院殿の造営に関し築地3本を寄進したことが見えることから、これが左衛門尉光行の跡を継いだ光定の初見とみられる[5]

讃岐十郎なる悪党を追捕した功により隠岐守に任ぜられたという[6]

『仏徳禅師語録』には光定三十三回忌の香語に「攘却巨寇」とあり、文永・弘安の役で戦功を挙げたとされている[5]

晩年は出家定光(ていこう)と称した[6]弘安年間(1278年 - 1288年)に死去したとみられる[5]。没年は弘安4年(1281年)とされることがあるが、前述三十三回忌香語に仏国祖師(高峰顕日)の遺骨を納めたとの記述があることから、三十三回忌は正和5年(1316年)の高峰顕日の没後であるとみて、弘安7年(1284年)以降とみる説がある[7]

系譜

脚注

  1. ^ a b 両人とも頼員(舟木頼春)の父とする説がある。
  2. ^ 資料によっては北条貞時の娘と記載されている。ただし貞時と子頼貞の年齢差が1歳であり、世代的に合わないことから誤記である可能性が高い。
  3. ^ 「明智氏一族宮城家相伝系図書」では土岐光包(光定の子)の子と記載されている。
  4. ^ 「明智氏一族宮城家相伝系図書」
  5. ^ a b c d e f 横山 2024, pp. 25–27.
  6. ^ a b 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年8月3日閲覧。
  7. ^ 横山 2024, pp. 39–41.
  8. ^ 横山 2024, pp. 37–38.

参考文献

関連項目





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