國民新聞記者時代
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ふたたび上京し、徳富蘇峰の知遇を得、民友社に入り、『國民新聞』記者として、政治および史論に筆をとった。主として『國民之友』『國民新聞』に筆をふるい、キリスト教メソジスト派の雑誌『護教』の主筆であった。 明治23年(1890年)東洋英和学校神学部を卒業。柳田國男らと共に、慶應義塾大学部文学科史学科教授に就任。のちの『三田文学』創刊にも携わる。 明治24年(1891年)キリスト教メソジスト派の雑誌『護教』の最初の主筆となる。 明治26年(1893年)には民友社より『荻生徂徠』を、翌27年(1894年)には『新井白石』を刊行。 明治30年(1897年)に、末松謙澄が主宰する毛利家の『防長回天史』編集所に入り、その編集主任となった。この時、一緒になったのが堺利彦(枯川)で、以後親しい友人となった。 明治31年(1898年)4月9日、信濃毎日新聞より主筆として招聘された。愛山は、信州人の豪放な気質を心から愛し、死の直前には「我らの信州に住み若くは信州に来往したること足掛十九年なり」と述懐している。
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