国鉄駅建設時のエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 09:52 UTC 版)
「天津西駅」の記事における「国鉄駅建設時のエピソード」の解説
1898年(光緒24年)清国政府のあずかり知らぬところで、英、独の資本家達が独断で津鎮鉄道(天津・鎮江鉄道)の建設を請け負う事を決定。清国政府は圧力に屈し、1908年(光緒34年)に借款に同意し、また路線名も津浦鉄道に改められた。 津浦鉄道の北部区間は当時見切り発車で工事が開始されており現在の静海県良王庄から工事を開始したが、これは天津起点の位置が未だ決定していなかった事によるものである。鉄路大臣呂海寰が派遣した調査員が送った決定的な報告書には「河北趙家場附近の空き地は二頃(面積の単位、1頃は約6.14ha)余り有り、地勢は平坦にして、苫屋は無く、また墳墓も無く、ターミナル駅建設の用に堪えうる。」とあった。当時の「河北趙家場」とは現在の紅橋区南運河一帯であるが、当時の南運河は今の様に曲がっておらず、この川の北岸が「河北趙家場」と呼ばれており、現在の天津西駅から500mと離れていない。こうして趙家場駅が建設される事となったが、これが現在の天津西駅であり、趙家場駅の小さな洋館造りの駅舎は今尚天津西駅の待合室の一つとして現存している。
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