呉中_(明)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 呉中_(明)の意味・解説 

呉中 (明)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/17 07:28 UTC 版)

呉 中(ご ちゅう、洪武6年(1373年)- 正統7年6月27日[1]1442年8月3日))は、明代官僚建築家北京宮殿長陵・献陵・景陵の建造を指揮した。は思正。本貫高唐州武城県

生涯

洪武末年、営州後屯衛経歴となった。建文元年(1399年)10月、燕王朱棣大寧を奪取すると、呉中は朱棣を迎えて降った。永楽2年(1404年)9月、右都御史となった。永楽5年(1407年)1月、工部尚書に転じた。永楽帝(朱棣)の漠北遠征に従い、帰還に苦労した。永楽14年(1416年)8月、刑部尚書に転じた。永楽19年(1421年)、夏原吉方賓らとともに漠北遠征の食糧輸送の不足を言上し、永楽帝の意に逆らった科で獄に繋がれた。

永楽22年(1424年)8月、洪熙帝が即位すると、呉中は出獄し、刑部尚書として再び起用された。10月、詹事を兼ねた。工部尚書に転じた。11月、太子少保の位を加えられた。宣徳元年(1426年)、宣徳帝に従って楽安州の漢王朱高煦の討伐に参加した。宣徳2年(1427年)3月、少保の位を加えられた。宣徳3年(1428年)、官の木石を使用して宦官の楊慶の邸宅を建造したことが罪に問われて、獄に下された。まもなく釈放されたが、少保の位を剥奪された。宣徳4年(1429年)4月、漕運の監督に出向した。宣徳5年(1430年)8月、吏部を兼ねた。宣徳10年(1435年)7月、少保の位を加えられた。

正統6年(1441年)、乾清宮・坤寧宮の2宮と奉天殿・華蓋殿・謹身殿の3殿の工事が完成すると、呉中は少師に進んだ。正統7年(1442年)4月、致仕した。6月丙辰、死去した。享年は70。茌平伯に追封された。は栄襄といった。

脚注

  1. ^ 『明英宗実録』巻93, 正統七年六月丙辰条による。

参考文献

  • 明史』巻151 列伝第39



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  呉中_(明)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「呉中_(明)」の関連用語

呉中_(明)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



呉中_(明)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの呉中 (明) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS