吉田弥平
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1932年
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人物情報 | |
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生誕 | 1869年2月13日![]() |
死没 | 1937年11月23日 (68歳没) |
出身校 | 東京高等師範学校 |
学問 | |
研究分野 | 教育学、国語学 |
研究機関 | 東京高等師範学校 |

吉田 弥平(彌平)(よしだ やへい、明治2年1月3日(1869年2月13日) - 昭和12年(1937年)11月23日)は、日本の国文学者・教育者。号は「太古」。
経歴
- 出生から修学期
1869年、常陸国河内郡柏田村(現在の茨城県牛久市)で町田清七の長男として生まれた。その後、吉田賢輔・たきの養子となった[1][2]。1885年、茨城県師範学校小学中等師範学科を卒業し、翌1886年に同小学高等師範学科を卒業した。小学校訓導を務めた後、東京高等師範学校文学科で学び、1894年に卒業。
- 国語科教員として
高等師範学校卒業後は、兵庫県尋常師範学校教諭・訓導を務めた。その後、母校の東京高等師範学校助教諭・訓導を任命された。後に同教諭、同教授に昇格。在任中は後進の指導に当たる一方で、多くの国語教科書編纂にあたった。1932年に退官した後は、藤田幽谷全集の刊行に取り組んだ[3]。1937年に死去。
家族・親族
参考文献
- 「故吉田彌平勲章加授ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113214600
脚注
- ^ a b c d 人事興信所編『人事興信録 第10版(下)』人事興信所、1934年。
- ^ 『代表的人物及事業』時事通信社、1913年、学術界59p。
- ^ NCID BN05776244
- ^ p.24 - 中森康之・山川歩夢「ヴォーリズ建築:山の上ホテル(2) - 作家の証言が意味するもの」『雲雀野:豊橋技術科学大学人文科学系紀要』第42号、2020年3月31日、17-31頁、 NCID AN00208381。
外部リンク
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