合同派によって合同反対派が締め出された教会合同会議
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「ブレスト合同」の記事における「合同派によって合同反対派が締め出された教会合同会議」の解説
1596年10月5日、合同派と合同反対派正教徒の双方がブレストに集合した。 ブレストの大聖堂において教会合同会議が開催されたが、その期間(1596年10月6日から10月9日)、主教イパーチイ・ポティの命令により、ブレスト中の大聖堂以外の全ての聖堂が閉鎖された。合同反対派は大聖堂に招かれず会議への参加を許されなかったばかりか、集会に聖堂を使えないこととなり、やむを得ず大貴族の家を集会所として使わざるを得なかった。この時期の合同派のやり方を若き日に目にして、合同反対派としてブレストに来ていたアレクサンドリア総主教代理キリロス・ルカリス(キリル・ルカリス)は強烈な反感を抱き、死ぬまで反ローマ・カトリックの姿勢を鮮明にし続けた。のち彼はコンスタンディヌーポリ総主教となる。
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