司法院院長及び最高法院院長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/05 14:20 UTC 版)
その後の居正は、蔣介石と対立的な政治姿勢を保っていた。しかし、1931年(民国20年)の満州事変(九一八事変)を経て、国民党内は大同団結となり、居正も蔣介石と和解する。居正は国民党第4回全国代表大会で中央執行委員、常務委員に選出され、司法院副院長に任命された。1932年(民国21年)5月、居正は司法院院長に昇格した。以後、1948年(民国37年)6月に辞任するまで、国内法制整備に尽力した。また、1932年11月5日から1935年7月22日までは最高法院院長を兼ねている。司法院院長辞任後、居正は監察院監察委員に選出された。1949年(民国38年)11月に台湾へ逃れた後もこの職にとどまっている。1951年(民国40年)11月23日、台北で病没。享年75。
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