博物館建設計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 00:08 UTC 版)
1890(明治23)年12月、奈良坂は、博物館建設用地として、神谷義誠という高利貸しから名古屋市門前町5丁目40番地(七ツ寺四望閣跡)の土地460坪を借地料月7円50銭で30年間借用する契約を締結。 第3回教育博物会の後、愛知教育博物館建設に向けて募金活動が開始され、『動物学雑誌』に募集広告が掲載された。1890年12月には『新愛知』に博物館建設に着手したとして度々募金の広告が掲載された。名古屋出身で東京在住となっていた田中不二麿、森竹五郎、水野遵、加藤高明、永井久一郎、野呂景義、成瀬正肥らが大口の募金に応じ、博物館建設にかかる募金の総額は約4,664円にのぼった。 1891年10月28日、濃尾地震により、建築中だった博物館の「陳列館」の建物が損傷。 1892年6月頃までに、浪越博物会は愛知教育博物会に発展解消した。
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