南モンゴルの民族自決闘争
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1989年5月、テグシらモンゴル族の学生・知識人らとともにモンゴル文化救助会(後にモンゴル文化啓蒙会に改名)を結成した。これが母体となり、1992年5月25日に南モンゴル民主連盟が正式に発足する。主席に就任したハダは「南モンゴル民主連盟組織規制」および「南モンゴル民主連盟章程」を起草し、漢族による南モンゴル(内モンゴル自治区)の植民地化に抵抗して、モンゴル族の民族自決と民主化のために闘争することを宣言した。この時、ハダの書店の前には大勢のモンゴル族の若者が参集し、民族の英雄であるチンギス・ハーンの肖像画を掲げてモンゴルの歌を放吟した。 その後、雑誌「南蒙之声」を始めとする地下出版活動に専念する。ハダは自著「内蒙古之出路」の中で、文化大革命期に起きた内モンゴル人民革命党粛清事件、内モンゴル自治区への漢族の大量移民、民族自治の形骸化、草原の環境破壊、モンゴル族への産児制限政策を始めとする人権侵害など、中国共産党政府によって隠蔽されてきた真実を暴露し、中華人民共和国憲法の枠内で保障されているモンゴル族の権利を擁護するために南モンゴルのモンゴル族が自ら声を上げるべきであると説いた。
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