加賀藩に仕える
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:17 UTC 版)
元和年間(1615年 - 1624年)に加賀藩第2代藩主前田利常に1000石で召し抱えられ、馬廻組に属した。 加賀藩への仕官には、利常の正室が珠姫(徳川秀忠と江の娘、すなわち淀殿の姪)であったことが関わっており、淀殿の助命のために奔走した一政に報いたと伝えられている。加賀藩では再び「浅井」を称した。 利常の子・前田光高には幼少時より傅役として仕えた(『加賀藩史稿』等によれば世子側用人として仕えたとある)。寛永16年(1639年)に利常が隠居し、光高が第3代藩主となった。光高からの信頼は厚く、300石が加増された。その後、老齢を理由として隠居し、越中国氷見に居住した。 正保2年(1645年)4月5日に光高が江戸で急死した。一政は金沢に帰る光高の柩を途中まで出迎え、柩に従って金沢に入り、4月25日に殉死した。一政は光高とともに金龍院天徳院(金沢市小立野)に埋葬された。その後昭和に入り、光高が加賀藩歴代藩主が眠る野田山墓地に改葬されると、一政の墓もともに移された。
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