別当監督時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:39 UTC 版)
「大阪近鉄バファローズ」の記事における「別当監督時代」の解説
1962年 チーム名を近鉄バファローズに改名。ジャック・ブルームフィールドが.374の高打率で首位打者を、28勝を挙げた久保征弘が最多勝を獲得するも、チーム全体ではわずか57勝(久保はほぼ半分の勝ち星を1人で稼いだ)で5年連続最下位。土井正博が18歳で四番に抜擢される。 1963年 5月以降チームは勝率5割を保ち、東映との3位争いをするものの、1ゲーム差の4位に終わる。この年のオールスターには7人が選ばれた。長打力には乏しいものの単打や二塁打を重ねて得点をあげる攻撃に「ピストル打線」のあだ名がつく。 1964年 この年4人の10勝投手が出るも、2年ぶりの最下位。1958年よりこの年まで7年連続で失策数はリーグワースト。シーズン終了後、別当薫が監督を辞任。後任には岩本義行が就任。球団結成時から在籍している関根潤三に対して球団の中には「監督をやれ」と言う人もいたが、関根にそのつもりはなく、近鉄を退団し巨人に移籍した。
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