別働隊の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 17:23 UTC 版)
山道を進んだ新政府軍の支隊は22日に魚沼郡千手村に到着して分割され、一隊は十日市経由で六日市へ到着し、もう一隊はは雪峠から小千谷へ進んだ。 三国峠方面では会津兵約200人が早期から防備を固めていた。閏4月21日に新政府軍の東山道軍が関東より行動を開始し、前橋・高崎・沼田など諸藩の兵約1,500人を率いて22日には永井村へ到着した。磐若塚を拠点とする会津軍に対し、24日の明け方より濃霧を衝いた上州各藩兵の突撃が始まり、午後3時頃には東山道軍の攻撃を支えきれなくなった会津軍は総崩れとなった(三国峠の戦い)。26日に追撃を続けた東山道軍は六日町に到着し、前日より進出していた北陸道軍支隊(山道)は27日から小出島へ進発した。会津兵約200人は六十里越を通過して会津へ敗走した(小出島の戦い)。 また26日には千手より小千谷を目指した北陸道支隊の一部は同日に真人村経由で雪峠を守備する古屋作左衛門の衝鋒隊(幕府歩兵・会津兵)約200人と交戦した。古屋隊は約三倍の新政府軍を迎えて善戦したが、午後五時頃には小千谷へ退却し、更に夜中に信濃川を下って片貝方面へ撤退して柏崎方面の友軍との連絡をはかった(芋坂・雪峠の戦い)。
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