円通寺の由来伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 06:11 UTC 版)
「禅昌寺 (下呂市)」の記事における「円通寺の由来伝承」の解説
禅昌寺の前身である大雄山圓通寺には、次のような由来伝承がある。 その昔、萩原町桜洞(はぎわらちょう さくらぼら)の御前山(ごぜんやま)中腹に恵心僧都源信が開いた寺があり、恵心僧都作の観世音菩薩像があった。南北朝末の永和年中(1375年 - 1379年)、この観音菩薩の霊験を伝え聞いた後円融天皇(北朝)が、懐妊した皇后の安産祈願のために勅使を送ったところ、寺は荒廃し、観音像は岩屋に置かれていたので、京都南禅寺派の名僧・竹処崇園(ちくそすうえん)を開山としてこの寺を再興させ、「大雄山円通寺」の山号寺号と「天下十刹」の綸旨を授けて勅願所とした。その後、兵火で圓通寺は荒廃し「天下十刹」の綸旨は焼失したが、観音像は難を逃れた。現在、禅昌寺の円通閣に安置されている「岩屋観音」が、その観音像である。 恵心僧都云々は伝承にすぎず信憑性はないが、圓通寺が永和3年(1377年)に創建されたことは史実と認められている。円通寺の創建地は、長年「萩原町桜洞」とされていたが、近年の研究で、禅昌寺の現在地である「萩原町中呂」に修正された。
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